アヒルの街歩き録

街歩きするアヒルが興味を持った森羅万象について感想を述べるだけ。当ブログはパソコン版ページからご覧になることをオススメします。

日本一小さな市は柔軟性も日本一!・蕨市 街歩き 埼玉県#2

蕨市の概要≫
蕨市は埼玉県南部にある人口7万人の街。古くは中山道第2宿・蕨宿が置かれ、商業的に繁栄した。全国一面積の小さい市であり、人口密度も全国一の市である。近年はトルコ出身のクルド人が多く集まり『ワラビスタン』と通称されることも。

≪略史≫
1888年以前 中山道の宿場を構成した上蕨村、下蕨村を合わせて『蕨宿』が成立(当時は宿場が地方自治体の最小構成単位の1つとして存在していた)。
1889年 蕨宿と塚越村の合併に伴い、北足立郡蕨町が成立。
1893年 日本鉄道本線(後の京浜東北線)の蕨駅が開業。
1945年 空襲を受ける。埼玉県内では熊谷市に次ぐ大きな被害を受ける。
1959年 市制施行。『蕨市』として埼玉県下20番目(現在まで存続する街の中で)の市となる。

≪アクセス≫
新宿駅から埼京線で赤羽まで行き、京浜東北線に乗り換え8分、埼玉県に入って3駅目が蕨駅である。


≪街歩きレポート≫
訪問日:2019.03.02、2019.06.30

 学校終わり、午後の電車で赤羽から蕨へと向かう。電車は混んでいたが、多くの乗客は川口で降り、座れる程度に空いた。沿線の商業施設を眺めているとあっという間に蕨駅へ到着。蕨駅の利用者数は60000人を数え、実は埼玉県6位の多さなのだ。川口が飛び抜けて多いためあまりそう感じないが、両隣の西川口南浦和も利用者は50000人を越え、単独路線の駅としては異例なほど利用者数の多い駅が並んでいる。しかし東北本線は赤羽から浦和まで飛ばすため、この区間京浜東北線が重要な足を担う。
 さて、駅改札を出ると東口への案内板があるが、『鳩ヶ谷市』の文字列に上からテープを貼った跡がある。鳩ヶ谷市は2011年10月まであった街だが、現在は川口市編入されている。実はこの時、蕨市も含めた3市合併の予定もあったのだが、諸事情あって蕨市は単独存立を選んでいる(詳しくは川口市の記事を参照願いたい)。駅東口を出ることにしよう。こちら側には繁華街が広がっている。確かにクルド系の方が心もち多いような気もするが、際立って多いという印象はない。私が西川口に比較的よく行くためか、そこまで強くは感じなかった(西川口も中東系、また後述するように中国系の方が多い街なのである)。『言われてみれば…』といった感じだ。

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『鳩ケ谷市』と書かれていた部分のうち『市』の字が消されているのが分かる。
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蕨駅東口は繁華街が広がる。実はこちら側の大半は川口市
 夕方でお腹も空いていたので、駅から徒歩5~6分のところにある『ハッピーゲバブ』さんにお邪魔した。(この店があるのが川口市なのは触れてはいけない。)トルコ出身のクルド人の方がやっておられる店で、店に入ると、奥のテーブルでクルド人とおぼしき男性2人が水タバコをふかしている。店員さんに水タバコ諸氏の隣のテーブルに通された。メニューを眺めるが、私もケバブ以外のものは食べたことがなかったので、ケバブライスの他にネットで美味しいと書かれていた『ジャジュク』を頼んでみた。これはヨーグルトスープとのことである。店内には陽気な音楽が流れ、慣れないうちは落ち着かないような面白いような気分になる。エスニック料理店によく行く私も、大抵の店は最初落ち着かないのであるが、慣れると非常に居心地良く感じられるようになるのである。不思議なものだ。おっと、料理が運ばれてきた。まずはケバブライスをいただこう。なるほど、ソースの味はそこまで強くないが、炒めたご飯との相性が抜群に良い。肉の味も引き立てられている。これは人気のある店というだけのことはある。次にジャジュクを口にする。…!ニンニクとハーブがガツンと効いている。キュウリのシャキシャキ感も爽やかで、これは癖になる味だ…。どちらも美味しく、やみつきになったように黙々と食べる。ちなみに、店には入れ替わり立ち替わりお客さんが来るが、半分以上はクルド系の人のようだ。隣に日本人のサラリーマンとおぼしき人も来た。慣れた様子を見るに、好きな人はよく来るのだろう。そうこうしているうちに完食してしまった。ケバブライスもだが、スープでこれほど『食べた!』という満足感を感じたのは初めてである。たくさんいただいて満腹なのであるが、ヘルシーだからか不思議ともたれない。もたれないメニューは大好きなので是非また食べに来たいものである。
店を出ると辺りはすっかり夜であったため、この日は帰途につくことにした。
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 日を改め、再び蕨駅にやって来た。前回とは反対側・西口に向かおう。駅のコンコースはそのまま宇都宮線の線路を跨ぐ跨線橋となっている。階段を下りると、小ぢんまりとした駅前ロータリーがある。正面にはアーケードの商店街が伸び、北側にも飲み屋などが立ち並ぶ歓楽街がある。

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蕨駅西口。古くから市中心部への玄関として機能してきた。
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西口駅前通りにはアーケードが伸びる。
 まずは正面に進んでいこう。この西口駅前通りは1893年蕨駅開設をきっかけに地元によって整備されたものだ。当時の写真を見ると、街路樹が植えられた立派な通りだが、道の左側にはまだ殆ど家が建っていなかった。この付近は当時の中心部から少し離れており、まだ田畑が広がっていたのであろう。ちなみに、街路樹はその後、1907年の水害で殆ど枯死してしまったようで、残念ながら残っていない。歩いていくとすぐにアーケードは途切れるが、商店街は暫く続く。クリーニング屋さんや薬局、カフェなど、ややひなびた看板に生活感が感じられるお店が並んでいる。
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少し進んで駅のほうを振り返る。静かな商店街と住宅地が混在する。
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駅付近と旧市街付近にお店が多い。こちらは旧市街近く。
 15分ほど進んだ交叉点で急に風景がガラッと変わる。道の舗装がアスファルトから石畳に変わり、立ち並ぶ建物にも瓦屋根が混じる。そう、この交叉点で交わる道は旧中山道だ。この付近は昔の蕨宿があったところで、それを意識した街並みになっているのだ。まず左側へと行ってみよう。時代劇に出てきそうな『宿場町の八百屋さん』そのものな店を眺めつつ進んでゆくと、『ようこそ蕨宿へ!』と書かれた幟旗が掲げられた建物がある。中に入ってみよう。
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昔の建物を意識した八百屋さん。なかなか風情がある。
 この建物は蕨市立歴史民俗資料館分館である。門をくぐると建物と建物の間に石畳が敷かれており、そのまま庭へ続いている。そう広くはないが池や燈籠もある贅沢な造りで、周囲の家とは格が違うことを思わせる。この場所には元々、宿場の脇本陣が置かれていたようで、つまり『一等地』というわけだ。白壁の蔵が中心に据え置かれた木造建築が右側にあり、こちらが資料館の入り口だ。入ってみよう。
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蕨市立歴史民俗資料館分館。
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奥の建物は所有者の御自宅として使われていた。左側は庭園。
入口の目の前には資料室があり、蕨市のほか戸田市川口市、旧浦和市、旧与野市などの市史が閲覧できる。戸田市は郷土資料館がない(※あるにはあるが規模が小さく、しかも現在閉館中)ので、ここに来て調べるのが良いだろう。まずは左側の建物を見ていこう。こちらは所有者の御自宅だった建物だ。広いというわけではないが、ところどころに趣向が凝らしてあるのがわかる。床の間は黒く塗られており、薄い色の掛け軸との対比が美しい。天袋や地袋は金色に塗られ、扁額も飾られているあたりに家の繁栄ぶりが垣間見える。
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縁側は大変開放的で、吹き抜ける風が心地よい。
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住宅街の中にあって、ホッと一息つける穴場のような空間だ。
さて、入り口に戻って、今度は表通り側の建物を見てみよう。この家は綿織物の卸問屋として明治時代から栄えた店で、その名残から客間の間取りは大変広い。客間の裏にはシンプルな部屋と蔵があり、恐らくここに多くの生地をしまっていたようだ。さらに廊下を進んだ奥には旧式の電話が設置してあった。地元でも有力な店だったのだろうから、かなり早い時期に電話が敷かれたに違いない。
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展示されている機織り機はここではなく、市内の工場で使われていたもの。月に二回ほど地元の有志団体によって動かされている、現役の器械とのこと(館員さん談)。
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お店だった建物の中央部には二階建ての土蔵が据え付けられている。火事の際にはここに商品を避難させるのである。
さて、表通りに戻って先程来た道を引き返そう。ちなみに、この中山道をそのまま南進すると国道17号に合流している。
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国道17号と旧中山道の分岐点。現在でもここが宿場町だと一目瞭然だ。
昔の写真を見ると、この近辺は間口が狭く奥に細長い典型的な宿場町の街割りだったようだが、今は細分化されたのか比較的普通の街割りだ。300mほど進むと左側に白壁の立派な建物がある。こちらが蕨市立歴史民俗資料館である。建物の北隣には案内板が立っており、ここが昔は蕨宿本陣が置かれていたことが記されている。つまり、蕨宿の一番の中心ということになる。郷土資料館の立地としてはまさに適地だ。では入館してみよう。
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蕨市立歴史民俗資料館本館。宿場の本陣があった『街の中心』だ。
館内は撮影禁止なので様子だけでもお伝えしたいと思う。入口付近は特別展示室のようで、市民の作品が展示され、文化活動の発信地になっているようだ。少し進んだところに常設展示室があり、手前の部屋には近代の蕨市に関する展示が行われていた。主に明治~昭和期の蕨市の写真が展示され、今の蕨市の様子を知ってから比較するとなかなか面白く見ることが出来る。中には昔の蕨駅の運賃表の写真などもあった。奥の部屋には江戸時代から明治時代あたりの蕨市の歴史と産業に関する資料が展示されている。宿場町の風景を再現したスペースには当時の食事なども展示され、想像しやすいように工夫が凝らされている。蕨宿全体の再現模型もあって分かりやすいが、本陣がどの建物かなどがもう少し分かりやすいようになるとより良いと感じた。また、蕨宿をどのような人が利用したのかなどの展示や、蕨宿が登場する文書や版画なども展示されている。個人的に最も興味深かったのは江戸末期~昭和期に蕨の主産業だった綿織物業に関する展示だ。江戸時代末に綿織物業を始めた蕨市の工場の創始者・高橋新五郎夫妻が市内の神社に機織神として祀られていることや、その後改良が重ねられ、商人に大変重宝された蕨市特産の『双子織』についての解説があった。絣(かすり)紋様の布生地は初めて見たが、なかなか惹かれるものがあった。ちなみに、歴史民俗資料館の2階も展示室はあるようだが、この時は閉まっていた。
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中山道の側溝の蓋にはこんな細工が…
さて、歴史民俗資料館を後にして市役所の方を目指そう。すぐ近くの『中山道蕨宿本陣跡』交叉点を右折するとすぐに右手に市役所が見える。そこそこ年季の入った建物で、日本一小さい街らしく、小ぢんまりとしている。この蕨市の歴史として特筆すべきは、日本初の成人式が行われた街ということだろう。空襲で埼玉県でも2番目に大きな被害を受けた蕨町(当時)では、戦後の慰労の意味合いも兼ねて、1946年11月22日に『第一回青年祭』が執り行われた。文部大臣や県知事が祝辞を送り、県議が出席するなど、それなりに大規模なものであったようだ。これが1948年に『成人の日』として国民の祝日とされ、全国的なものとなったのである。ちなみに、蕨市では今でも初期の名称である『成年式』と称している。
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蕨市役所。小ぢんまりとしている。
さて、市役所を出て、東隣にある和樂備神社を訪れてみよう。ここは室町時代の創建とされ、それ以前は中世城郭『蕨城』があったところだ。江戸時代以降は蕨宿の総鎮守として信仰を集めた。現在でも地元のお祭りの中心となるなど、街に息づいている。
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和樂備神社の案内板。
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和樂備神社があった場所は中世には『蕨城』というお城があった。
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郷社として信仰を集めるこの神社には、街のお祭りで披露されるお神輿が展示されている。
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神社の脇の池には私の兄が()
さて、神社を出て市役所通りを東に向かうと蕨駅の方に行かれるが、少し寄りたいところがあるので北に歩を進める。住宅街の中の小道を進むと『一本杉塚』という塚と小さな祠がある。由緒は写真の案内板を参照されたい。
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一本杉塚の案内板。
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一本杉塚。
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旧市街付近は一方通行路が多い。昔ながらの町割りで道路が狭いためであろう。
さて、住宅街の中を通って北東へ向かおう。4分ほど進むと目の前に大きな団地が見える。ここは芝園団地だ。ニュースでも何度か取りあげられたようだが、外国からの移住者が多く暮らし、現在の住民の半数は中国系の方だそうだ。実は、2003頃まで南隣の西川口駅付近には風俗街が存在したのだが、川口市がここを一斉摘発して壊滅に追いやった。しかし、風俗街への客で成り立っていた西川口の商店街は客足が遠退いたことで非常に困ることとなった。一方、この頃から東京へのアクセスの良さや程よい地価が移住者を惹き付けるようになり、特に中国系の人が増えていった。地元の商店街は復活し、街は再び活気を取り戻した。芝園団地もこのような流れで移住者が増え、それまで空き家だらけだった団地が賑わいを取り戻すきっかけとなったのである。だが、最初は文化の違いなどから問題が生じた。例えば、中国にはゴミ出しの規定が無い地域も多く、曜日で出すゴミが決められている団地のルールが浸透していないうちはなかなか理解してもらえなかった。しかし、自治会のメンバーに中国人にも入ってもらい、中国語でも注意書きをするなどしてこの問題は解決に向かった。現在は団地のお祭りに参加してもらえるように計画を練っているようだ。
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芝園団地は多文化共生の先進的事例として注目されている。是非当ブログでも取り上げたいと考えている。
さて、芝園団地から飲み屋街を通って蕨駅まで戻ってきたが、いかがだっただろうか?是非コメントなどもいただけると嬉しい。それではまた。

古き粧い残す住宅都市・狛江市 街歩き 東京都#1

≪狛江市の概要≫

多摩川の左岸にある、日本で2番目に面積の小さな街。市の全域が住宅街主体の住宅都市。都心からの距離に比べ、自然に恵まれた街。

≪略史≫

1889年 町村制施行に伴い、神奈川県北多摩郡狛江村となる。
1893年 東京府へ移管、東京府狛江村となる。
1927年 小田急小田原線開通。狛江駅など2駅開業。
1952年 町制施行。
1970年 市制施行。『狛江市』として東京都下17番目(現存する街の中で)の市となる。
1974年 市内の多摩川が決壊(74年多摩川水害・死者0人)。
1997年 市内の小田急線高架化工事が完了。
2018年 狛江駅が54年ぶりに準急停車駅となる(1964年以前は狛江駅を挟む前後の区間が各駅停車だったため、前後区間を急行運転する列車の停車駅となるのは初)。

≪キャッチフレーズ≫

私たちがつくる水と緑のまち 水と緑の住宅都市

≪アクセス≫

新宿駅から小田急線急行で4駅の成城学園前駅で準急に乗り換え1駅、18分で狛江駅に着く。

≪訪れた名所≫

・狛江弁財天池緑地
・狛江市立古民家園
多摩川水害の碑
・多摩水道橋

≪街歩きレポート≫

訪問日:2019.4

 春休みも終わる4月初週、休みの終わりにもう1ヶ所ほど街歩きしたいと思い立つ。都心から近いエリアで行ったことがない街を考え、狛江を思いついた。久しぶりに川を見たいと思っていたので、行くことを即決した。
 小田急線に乗り込む。急行電車は前年に完成した新しい線路を進んでゆき、すぐに成城学園前に到着。ここで向かい側の準急に乗り換える。喜多見駅ホームに面した線路を通過していくことに些か違和感を感じていると、すぐに狛江に到着した。成城学園前から終点・向ヶ丘遊園までの停車駅が急行と1駅しか変わらないためか、大半の乗客は狛江で降りた。
 さて、改札を出よう。改札の前にはお馴染みの高架下店舗が並ぶ。小田急系列のベーカリー・HOKUO箱根そばもある。狛江駅を初めこの前後の駅のデザインは、白ではなくクリーム色と茶色を基調にして、駅入口のアクセントにアーチ形を取り入れている。ちょっとした違いだが、高級感を感じさせる。

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狛江駅南口。駅の目の前から商店街が軒を連ねる光景はこの地域ではおなじみだ。
 南口に出ると、道を挟んですぐに店舗が密集したエリアが現れる。比較的古くからあると思われる商店街で、一通りの飲食店が揃っているようだ。この商業エリアを抜けると、狭い通りを挟んでマンションが並ぶ住宅地に入る。住宅地を彷徨っていても怪しいだけなので、駅の方へ戻る。
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駅北口には小田急系スーパー・Odakyu OXなどが入る複合ビルがある。上の階には市民ホール・エコルマホールも入る。
北口は南口側とは対照的にロータリーが広がり、かなり広々としている。実は、駅高架化(1997年)以前は北口側も南口側のように店舗や住宅が密集していたらしいのだが、駅リニューアルに合わせて街の玄関として装いを一新したのである。このロータリーからは調布駅方面などへの小田急バスが発着している。ロータリーを出て右に行き、狛江市役所前交叉点を左折すると、右側に立派な建物が見える。狛江市役所だ。街の規模に比して大規模な庁舎で、中央図書館と公民館を併設している。小綺麗な3つの建物が『コ』の字形に広場に面しており、広場の真ん中には立派な木が植わっている。ここのベンチで休むのも一興かもしれない。
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狛江市役所(正面)と市立中央図書館(左側)、中央公民館(右側)。
 さて、北口に戻ってきたので、今度は先程とは反対側の左へ行く道を進んでみよう。こちらの道は『弁天池通り』と名付けられている。進むと直ぐに左側に鬱蒼とした林が現れる。これは…見るからに屋敷林ではなく歴とした自然林だ。(ここ、駅前だよね!?)と思って後ろを振り返ると、確かに駅ロータリーが見えている。そう、この林こそが『狛江弁財天池緑地』である。このエリアも元々、上述の再開発予定地だったのだが、保存運動もあって残される事になったのだ。緑地の東側半分ほどは原則立入禁止の保護地区になっている(定期的に開放はしているようで、開放日が掲示されていた)。道を進むと、緑地の入口があったので入ってみる。奥には澄んだ水を湛える池があり、マガモが3羽寛いでいる。鳥の同志だ(違) 少し歴史を辿ってみよう。この弁天池は昔からどんな日照りの時でも水が枯れることはなく、池から流れ出る清水川は地域の生活用水として使われていた。実は、多摩川の旧河道がこの付近を通っていたため、透水層と不透水層の境目がここにあったのである。戦前には荒木貞夫(陸軍大将、文部大臣を勤めた皇道派の主要人物。軍人としては否定的評価が多いが、部下からは慕われた。)の実家があったが、戦後しばらくは地域のプールとして利用されたり、釣りを楽しむ人の姿も見られるなど、昔と変わらず親しまれていた。ところが1972年、『枯れたことの無い池』は湧水が途絶え、干上がってしまった。狛江市の宅地化が進み、地下水を汲み上げすぎてしまったためと言われている。このころ弁天池緑地の保護運動が起こり、翌年狛江市の史跡第1号に指定された。この保護運動は継続され、90年代の駅北口再開発に際してもこのエリアは変わらず保全されて現在に至っている。2006年には深井戸が掘削され、往年の湧水が形を変えて復活した。ちなみに、この池が『和泉』という地名の由来でもあり、和泉多摩川駅の駅名にも入っている。
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狛江弁財天池緑地。住宅街の中とは思えぬほど静かだ。
 さて、この弁天池を管理しているのは先程来た道を挟んで向かい側の泉龍寺というお寺である。泉龍寺にも行ってみよう。住宅地の中にある立派なお寺であり、雰囲気は調布市の布多天神社を想起させる。どちらも地域の郷社として信仰を集めている点でも似ている。
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泉龍寺参道にある鐘楼。大変立派で、しばし見入ってしまった。
 泉龍寺を出て東に進むと、右手に昔ながらの農地も見られるエリア(武蔵野市北部や調布市にも似た風情だ)を抜けて、田中橋交叉点に出る。そのまま道なりに『六郷さくら通り』を進むと、左側に狛江市立古民家園がある。毎年4月にはこの六郷さくら通りで桜祭りが開かれるらしいが、訪問時には既に終わっていた。少し遅かったが、まだ満開の桜の木もあり何だかちょっと得したような気分だ(混んでいると疲れますからね)。
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六郷さくら通りの桜並木。満開からは1週間ほど経っていたが、それでも美しかった。
 古民家園には狛江市内にあった『旧荒井家住宅』と、立派な長屋門『旧高木家長屋門』が移築・保存されている。古い家屋の縁側に座り、しばし昔の情景に思いを馳せる。防火水槽や薪も置かれており、当時の生活様式を知るには最適だ。このように狛江市の郷土資料館に当たる施設であると同時に、昔ながらの玩具が置かれており、けん玉やお手玉、輪投げなどで遊ぶことも出来る。私も遊ぼうかと思ったが、親子連れの先客がいたのでやめておくことにした。大きなお友達は怪しいからね
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狛江市立古民家園。
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古民家園の目玉・長屋門。ここまで状態が良いものを見るのは久しぶりだ。
 少し寛いだことだし、和泉多摩川駅の方へ向かおう。この付近は隣の世田谷区に似た閑静な住宅街だ。小綺麗に整備された道路は歩道もしっかりととられ、歩きやすくて快適だ。公園では少年野球チームが練習をしている。
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和泉多摩川駅前にて。子供の時分に世田谷区に住んでいた鴎は、何となくその頃を思い出してしまう。
 和泉多摩川駅の高架をくぐって南側に向かう。こちら側には飲み屋なども混じる小規模な商店街がある。昔ながらの街といった風情で、北側の比較的『新しい街』とのコントラストが楽しい。商店街は70mほど続くが、すぐに一軒家が並ぶ住宅街へと入る。歩を西へと進め、多摩川へと向かう。
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和泉多摩川』の駅名の通り、駅近くの住宅街からも多摩川の土手が顔を覗かせる。
 駅から5分も歩かぬうちに多摩川が現れる。少しばかり河川敷の方へ行ってみよう。何やらモニュメントのようなものがあるので近づいてみる。四面体に『多摩川決壊の碑』と書かれている。実はこれ、1974年に発生した多摩川水害の記憶を遺すために設置されたものなのだ。ここからは鴎の推測にすぎないが…多摩川には左岸側に沿って河岸段丘が続いており、立川市付近から『立川崖線』と『国分寺崖線』の2つの段丘面の境目が続いている。このうち、多摩川に近い方の『立川崖線』は狛江市の手前となる調布市で途切れるため、狛江市のこの付近には川沿いの比較的広い範囲に低平なエリアが広がっているのだ。水防技術が不十分だった当時、ここのエリアは治水上の『弱点』だったのではなかろうか。そのため、家屋20軒が流出するという大水害に繋がったのだと思われる。当時の映像も見たことがあるが、都市部の新興住宅街での水害はなかなかショッキングだった。ちなみに、これ以降に狛江で同様の大規模水害は起きておらず、対策が進んだことが伺える。
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狛江市設置の多摩川周辺案内板。多摩川は市民の憩いの場だ。
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小田急線が行き交う多摩川鉄橋。奥に見えるのは登戸駅
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多摩川水害の碑』。この場所から決壊したとされる。
 土手を引き返し、小田急線の多摩川鉄橋をくぐる。上り線と下り線の間の真下に立ち、上を眺めると行き来する電車の音が響き、何と面白いことか。ロマンスカーと急行、各停でそれぞれ異なる電車の音を楽しむのも一興だ。鉄橋を過ぎると土手が上り道になり、多摩川を渡る多摩水道橋に突き当たる。この橋はアーチ部の裾が波のような緩やかな形で取付道路へと下ろされており、なかなか美しい構造をしている。さて、橋を渡って狛江市に別れを告げよう。ここはもう川崎市多摩区だ。橋を渡って左に少し進むと、登戸駅前に出ることが出来る。
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多摩水道橋。並行する2つのアーチが美しい。
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多摩水道橋の下流側を臨む。童心に帰って、いつまでも電車を眺めていられそうだ。

≪参考≫

・狛江市ホームページ
・泉龍寺ホームページ
・狛江市立古民家園
多摩川水害の碑 案内板
・鴎の現地調査

オリンピック会場の競艇場を抱える街・戸田市 街歩き 埼玉県#1

戸田市の概要≫

戸田市は埼玉県最南部に位置する人口14万人の街。1964年の東京オリンピックで競技会場となった戸田競艇場で有名。また、この『ボートレース戸田』のお陰で財政は三芳町と並ぶ埼玉県トップクラスの水準を誇る。

≪略史≫

1889年 北足立郡戸田村として成立。
1941年 町制施行。
1954年 戸田競艇場が開場。
1957年 美笹村と合併。
1964年 戸田競艇場東京オリンピックボートレース競技会場となる。
1966年 市制施行。『戸田市』として埼玉県下21番目(現在まで存続する街の中で)の市となる。
1985年 埼京線が開通。戸田公園駅など3駅開業。

≪キャッチフレーズ≫

やさしいまちに、なりたい。パートナーシップでつくる 人・水・緑 輝くまち とだ

≪アクセス≫

新宿駅から埼京線快速で5駅、18分で代表駅となる戸田公園駅に着く。

≪訪れた名所≫

・戸田橋
戸田競艇場・漕艇場
・旧戸田橋の親柱

≪街歩きレポート≫

訪問日:2017.09.19、2019.03.02

 昼下がり、埼京線の快速に新宿駅から乗り込む。赤羽駅手前から高架線を揺られ、右から来る東北新幹線と合流し近代的な高架を進んでゆく。北赤羽、浮間舟渡と通過して荒川の鉄橋を渡って埼玉県に入ったかと思うとすぐに戸田公園駅に到着!
 …などと書いたが、今回は一駅手前にある浮間舟渡駅(東京都北区)から歩いた。各駅停車を降り、ホーム中程の階段を下りると埼京線によくある構造の高架下駅舎がある。東口に出るとやや広めのロータリーがあり、三田線高島平駅方面への国際興業バスなどが発着している。ロータリーの周囲には少しばかりチェーン店も見かけるが、駅を出た最初の印象は『空が広い!』。駅前には都立浮間公園が広がっているのである。サクラソウが綺麗とのことで、初夏に再訪したいものである。
 一方、駅西口は住宅街に面しており、鉄道の高架も相俟ってやや窮屈な雰囲気。ここから戸田市を目指して歩いていこう。暫く線路に沿って北へ行き、行き止まりで左折すると国道17号が見える。国道17号は旧中仙道にあたる。交叉点のすぐ北が都県境の戸田橋である。戸田橋南岸の荒川河川敷は大変広く、サッカーなどに興じる人々が見える。荒川沿いの土手の上、下それぞれに舗装された道が整備され、土手上はマラソンを、土手下はサイクリングを楽しむ人が多い。
 右に東北新幹線埼京線が行き交うのを眺めながら戸田橋を渡ると、いよいよ戸田市である。競艇の街らしく土手下には小舟が置かれている。橋を渡りきると、堤防下に住宅街が広がっている。橋から左側へと道を下り、住宅地の高さまで降りてくる。ここの戸田橋(西)交叉点を右折し、暫く行くと左手に柵で道路と区切られた水面が見える。ここが戸田公園だ。正確には戸田公園の大半を占めるのはボート競技の練習をするための『漕艇場』であり、実際に競技会が行われる『競艇場』は奥の一部を占めるに過ぎない。土曜日ということもあってか、漕艇場では関東の大学のボート部がそれぞれ集まって練習に勤しんでいた。漕艇場の脇には各大学のボート倉庫が立ち並んでいて、中には県の倉庫などもある。相当本格的で、さすがオリンピック会場になっただけのことはある。

奥まで歩き、競艇場までやってきた。2km近くあり、さすがに疲れた。

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戸田競艇場。通称は『BOAT RACE戸田』。
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競艇場の最西端から西側を臨む。
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笹目川から競艇場に水を引き込む水門。尤も、ここ50年ほど開かれたことは無いようだ。
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同じ水門を笹目側の方からも。
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すぐ南側で笹目川は荒川と合流する。荒川の水位が上昇した時にはこの『笹目水門』が閉じられる。
 先程来た道に戻り、道を挟んで漕艇場の反対側に目をやると、風格ある親柱がある。戸田橋の旧親柱だ。(親柱というのは橋の名前や河川の名前、出来上がった年月などを入れる部分のこと。)こちらは3代目の親柱で、戦前の1929年に近代的な橋が掛けられて以来使われていた。当時の戸田橋は大変美しいと評され、一種の観光地にまでなっていたようだ。案内板によると、戦時中は米軍の機銃掃射を受けたとのことで、見ると確かに弾痕がある。この橋は64年の東京オリンピック聖火リレーも通った。1973年から新戸田橋(現在の4代目戸田橋)の建設が始まり、その後暫定的に上り線用として使われていたが、78年に交通量増加などを理由に現行の橋に完全に置き換えられ役目を終えた。しかし、歴史ある地域の遺産として残されたのである。並行する東北新幹線埼京線の高架橋よりも遥か昔から、歴史を長年見守ってきた戸田市のシンボルのようなものと言えよう。親柱の後ろ側は戸田橋親水公園という児童公園になっていて、本来なら水場もあるのだが、訪問時は水は張られていなかった。公園の先から川があるので、どうやら公園の下を水が流れてきているようである。公園では親子がボール遊びをしていた。新幹線が見えてなかなか楽しそうである。公園の先から北へと進路を採り、住宅街を700mほど進むと駅のロータリーが見えて来た。
 戸田公園駅だ。西口側が表口と言った風情で、ロータリーには飲食チェーン店などの店が並ぶが、すぐに住宅地へと続いている。人口15万の都市とは思えないほどこぢんまりしており、典型的な住宅都市の様相を呈している。駅利用者はかなり多く、平日はこの駅からの上り列車大宮方は激しい混雑をすることで有名である。駅の上りホームの発車メロディは『ああ わが戸田市』。戸田市の市歌で、歌詞では荒川、さくら草、戸田競艇場など戸田の風物が歌われる。
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駅には大規模ではないながらもショップが入っており、仕事帰りにフラッと立ち寄れる。
 そんな戸田公園駅周辺の小売店で重要なのは駅高架下にあるスーパー、サミットである。土曜の昼であったが、多くの買い物客で賑わっていた。駅東口はそのまま住宅街に出るのであるが、驚くことにこの狭隘路をバスが走ってきている。駅東口にもバス停があり、京浜東北線蕨駅とを連絡しているのである。私もバスと同じく、蕨駅の方へ向かおう。
 駅東口から真っ直ぐ進み、道なりに緩く左にカーブしつつ1㎞少々進み続けると、やがて戸田市役所である。市役所周囲はロードサイド店舗が点在し、やや商業地の趣もある。市役所からは既に蕨市との市境至近である。蕨市へと足を踏み入れ、戸田市に別れを告げた。

≪参考資料≫
・かもめの現地調査
・戸田橋親水公園の案内板